東和製作所

お問い合わせ
リーフ

トピックス

戦国時代からの石垣工法を伝える穴太衆とは

Pocket

Pocket

城の石垣を見て、「きれいに積んであるな。頑丈そうだ」と思うようなときと、「乱雑に積んである。これでは簡単に崩れてしまうだろう」と思ったことはありませんか。実は、石垣の組み方は見た目のきれいさと強固さが反比例します。この一見乱雑な工法を「野面積み」といい、城の石垣用のノウハウとしては滋賀県大津市の建築会社が唯一現代に伝えています。

お城の石垣の組み方には3、4種類ある

城などの石垣の作り方は、使っている石の形で分けると、主に「野面積み」「割り石積み」「切り石積み」があります。これに、隅の部分だけ使われることの多い「算木積み」を加えると4種類です。

野面積み

戦国時代に造られた城は、その後改修されていないのならばこの積み方です。自然石を加工せず、しかも大小取り混ぜたまま積み上げています

見た目には乱雑で、「未発達な石垣の積み方」と思えるかもしれません。しかし、「地震などには最も強く、簡単には崩れない」といった評価があります。どうやら、「隙間がある分、揺れによる圧力が分散させる」ようなのです。また、隙間が多い分、水がそこから流れ出るので、大雨の影響もあまり受けません。

ただし、デメリットもあります。高く積むのには適してない上に角度は緩く、手を掛ける所が多いために敵兵が比較的簡単に登れます。

割り石積み

別名は「打ち込み接(は)ぎ」です。石垣の表に出る面や角を割って平たくした石を使ったものをいいます。それでも残った隙間には、「詰め石」と呼ばれる小さな石を打ち込んで埋めていきます。

野面積みに比べ、高く、しかも急こう配に積むことができます。1600(慶長5)年の「関が原の戦い」以降、急速に普及しました。

切り石積み

「切り込み接ぎ」ともいいます。表に出る部分だけではなく。奥の面まで長方形や正方形、多角形などに削り、ほとんどブロックのようにしてから積んだものをいいます。

見た目には最も整然としています。しかし、水が抜けるところがないので排水口を設けるする必要があります。地震などでも比較的かんたんに崩落します。大坂冬の陣・夏の陣以降に広まったところから考えても、「実戦よりも見栄えを重視」の積み方と考えていいでしょう。

算木積み

石垣の隅に限定して使われることの多かった積み方です。「算木」とは和算で使った計算用具で、短めの角材のような形をしています。この算木のような細長くて四角い石材を井げた状にし、角はそろえて積み上げていきます。

切り石積みはもちろん、野面積みや割石積みでも併用されることが珍しくありません。

熊本地震では野面積みが最も強かった

熊本城は戦国期から江戸時代にかけて整備されたため、4種類の石垣がすべてが見られます。

2016年の熊本地震では石垣全体の約3割が崩れました。「築城当初の石垣に大きな崩落はなく、1889(明治22)年に陸軍が主導し修復した部分が崩れ、大きな被害が出た」といいます(熊本城総合事務所談、京都新聞2019年3月7日「穴太衆の石積み、最新技術に勝る 鎌倉期の技術、公共工事も採用」)。

「野面積み」との言葉は使われていませんが、「築城当初」というところから、「大きな崩落はなく」は野面積みのことと考えていいでしょう。

野面積みを得意にした穴太衆

「野面積み」の話になると、必ず出てくるのが、「穴太衆」です。また、「穴太積み(穴太衆積み)」も同様です。本来は「穴太衆がやる石積み」といった意味で、特にどれかに技法を限るわけではありません。しかし、あまりに穴太衆とイメージが結びついてしまったために、しばしば、「野面積み」と同じ意味で使われます。

渡来人が伝えた石垣の技法はいったん途絶える

城の石垣の歴史は古く、7世紀後半に築城された大野城(福岡)、屋島城(香川)などでも見られます。これらの城のノウハウは朝鮮半島の影響が強く、「朝鮮式山城」と呼ばれます。石垣を含めた築城技術も渡来人が伝えました。

しかし、この技術は一度は失われ、その後の防御壁は土塁が中心になりました。再び城に石垣が使われるのは戦国期からで、その中でも初期のものが織田信長が築いた安土城です。石垣は、野面積みでした。

安土城築城にも参加した穴太衆

安土城の石垣づくりのために集められた工人の中に穴太衆(あのうしゅう)がいました。比叡山のふもとの琵琶湖岸に住み、主に延暦寺のために働いていた石工の集団です。穴太衆の技術は知られるようになり、その後も彦根城・竹田城・金沢城・大坂城・彦根城などに参加したと考えられています。

敵味方関係なく必要とした専門家集団と考えていいでしょう。

地震被害の熊本城の修復など現代に生かされる穴太衆の技術

その穴太衆の末裔(まつえい)に当たる建設会社が粟田建設(滋賀県大津市)で、今の粟田純徳(すみのり)社長が15代目になります。野面積みの技法を今に伝える唯一の存在のために、安土城を筆頭に古くからの城の石垣の復元・修復工事に欠かせない存在です。熊本城の修復工事にももちろん主要な役割を果たしています。

しかし、4百数十年に渡って受け継がれてきた技法も、その継承者は今や15代目社長が唯一の存在で、心細さは否定できないところです。(京都新聞2019年3月25日「戦国期栄えた石垣技法『穴太衆積み』海外進出 高い耐久性に注目」)。

関連記事:

製品紹介についてはこちら
お問い合わせはこちら

お客様の声

株式会社京都井口組 取締役副社長 井口雄一様


株式会社野崎組 取締役専務 野崎善幸様

なぜ、東和製作所が選ばれるのか?