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尾根や谷を削って作られた東大寺の敷地

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東大寺といえば、大仏やそれを安置する大仏殿、運慶・快慶作の仁王像などの大きさに驚く人は少なくないでしょう。しかし、もうひとつ大きな工事に注目です。大仏殿や南大門などのあるあたりは元は尾根や谷で、これらを削ったり埋めたりして広い境内を造り出したと考えられています。

「世界最大の木造建築」の東大寺大仏殿

東大寺の大仏の高さは約15メートルあります。大仏殿もそれに合った大きさが必要で、高さは49.1メートル、正面は約57.5メートル、奥行きは50.5メートルです。

よく「世界一の木造建築」と説明されています。ただ、これは「伝統的工法で造られたもの」に限定して考えるようにしましょう。現代工法でならば、高さは28.5メートル・縦150メートル・横70メートルの「メトロポール・パラソル」(2011年完成、スペイン)のように大仏殿を超えるものがいくつか登場しています。

とはいえ、大仏殿はクレーンやブルドーザーなどの重機も設計ツール、電動工具もない時代に作ったことを考えると、驚異的な大きさであることには変わりはないでしょう。

建物を造る前に大造成した東大寺の敷地

東大寺の敷地は、奈良盆地の東の端にあり、かつては南北・東西とも約1キロほどの広さがありました。説話・講話の場である「講堂」や西の端を示す「西大門」「西中門」などは失われ、敷地もやや縮小しています。それでも、日本代表する大寺であることには変わりありません。

「お水取り」で知られる「二月堂」など一部の建物は山すその斜面にありますが、大仏殿など多くは平地の上です。1960(昭和35)年、東大寺の境内全体に渡って、詳細に測量調査され、「元はいくつもの尾根や谷が境内にまで延びいた」との結論が出されました。つまり、大仏殿や南大門、正倉院など東大寺の主要な建物の多くが、尾根を削り谷を埋めるなど大規模に造成した敷地の上に建っています。

重い大仏殿には固い地盤が必要だった

大仏は現在のもので本体が250トン、台座が130トンの計280トンあります。

大仏殿の総重量が話題になることはないようです。しかし、1974(昭和49)年から6年にわたって行われた「昭和の大修理」による作業で屋根瓦については判明していて、1枚約16キロのものが約13万枚使われていました。つまり、これだけでも約2,000トンになります。また、今の大仏殿は江戸時代に再々建された3代目です。創建当初のものは奥行きと高さはほぼ同じなものの、横幅は約1.5倍あったと考えられています。

初代の大仏殿も場所は今と変わらず、尾根を削った跡に建てられました。当時は基礎杭を打つわけではなく、地面を突き固める程度です。「大仏殿と大仏を支えられる固い地盤が必要だった」も大規模な造成が必要になった理由のひとつと考えられています。

二月堂の下の急坂は造成工事の名残

東大寺は8世紀半ばに造られました。11世紀前半なので、書かれたのはかなり後年になりますが、その様子にいくらか触れた記録に『東大寺要録』(東大寺の寺誌)があります。これでは、大仏殿と大仏に関わった人数だけでも、「材木関係の技術者51,590人、その配下の労働者1,665,071人。また、金属関係の技術者372,075人、その配下の労働者514,902人。あわせて延べ2,603,638人」とされています。

一方、敷地の造成工事の具体的な様子は記録として残っておらず、様子もよくわかりません。しかし、実際に東大寺の境内を散策すると、「お水取り」で知られる「二月堂」から大仏殿へと向かうと、この周辺だけ急な下り坂になっていて、石段も設けられています。おそらくは、素人目にも「ここから先にあった尾根は削られた」と気がつくでしょう。また、この周辺から残りの東大寺境内や奈良盆地を眺めると、その造成工事の規模の大きさがいくらか実感できるかもしれません。

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