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再建前はほとんど金箔がなかった金閣、再建後は特製の金箔で輝きを保つ

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金閣はおそらくは日光東照宮と並んで、最も派手な歴史的建造物でしょう。しかし、再建前のものは、第3層にいくらか残っているだけでかなり地味な建物だったようです。しかし、再建したものには第3層だけではなく、第2層にまで金箔が貼られました。ただ、これも一度はあっけないほど簡単に傷んでしまいました。二度とそのようなことがないようにと、その後の修復では厚みも量も変えて金箔が貼られています。

「金閣」の名前は、応仁の乱より後

金閣寺の場所には元は、公家の西園寺家の別荘がありました。1397(応永4)年、足利幕府3代将軍の義満がこれを譲り受けて、「北山殿(きたやまどの)」を造営し始めます。また、翌年にはここに移り住み、10年後に亡くなるまで住み続けました。死後、遺言に従ってお寺に改められます。名前は義満の戒名から一部を取って、「鹿苑寺(ろくおんじ)」となりました。また、今は金閣と呼ばれている建物は、「舎利殿」「三重殿閣」などと呼ばれていたようです。

1467(応仁1)年から11年間続いた応仁の乱で、鹿苑寺も大半の建物を焼失し、舎利殿だけが残りました。

「金閣」の名前が確認できる最も古い記録は、それよりも後の1484(文明16)年です。鹿苑寺からは本山に当たる相国寺(臨済宗)の僧が、日記『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』に記しています。お寺全体が「金閣寺」と呼ばれるようになったのはもちろん、さらに後でしょう。

焼失した金閣と再建の金閣の違い

よく知られているように、義満の金閣は1950(昭和25)年、放火により焼失しました。世の中に与えた衝撃は大きく、この事件を元に三島由紀夫は『金閣寺』を、水上勉は『五番町夕霧楼』や『金閣炎上』を書き、いずれも代表作とされています。

その5年後、金閣は再建されました。このときの問題のひとつが、「第2層に金箔を貼るかどうか」です。金箔は最も上の第3層にいくらか残っていただけで、元の金閣は今の人々がイメージとして持っているようなきらびやかな建物ではありませんでした。

2層部分には見た目には全くなかったものの、「貼った痕跡がある」という主張が通り、今見られるように第2層・第3層に金箔が貼られました。また、一般には公開されていませんが、これらの内部の壁も一面の金箔です。

今の金閣に使われている金箔の量

再建の際、10センチ角の金箔が10万枚使用されました。ただし、重量にして約2キロ、体積ならば100立方センチメートルほどでしかありません。「100cc」ということなので、コーヒーカップ1杯分にも足りないぐらいです。

この金箔は10年20年で簡単にはがれ落ちるようになりました。一般の工芸用と変わらない薄さの金箔が使われたために日光を通してしまい、接着剤や下地として使われていた漆が紫外線で劣化したためです。傷んだ漆がむき出しになり、文化財修復の専門家は「炭をこすりつけたように二層、三層の壁面は汚れ……」と表現するような有り様でした。やはり、工芸用に発達してきた金箔を外装に使うのに無理があったようです。

1986(昭和61)年から翌年にかけて、金箔の張替えをする「昭和大修復」が行われました。このときには、前回の失敗に懲りて、5倍の厚みがあるものを20万枚使用しています。重量では当然、10倍の約20キロになりました。

創建当初の金閣(舎利殿)・金閣寺(鹿苑寺)の姿

今の金閣の姿を「創建当初の輝きを取り戻した」と表現されることがあります。しかし、周囲まで含めるとかなり違った姿だったようで、「目の前の鏡湖池は今よりも広く、金閣は島の中に建っていた」「鏡湖池越しに見て左側には、2層建ての『天鏡閣』があり、金閣と空中回廊で結ばれていた」との説もあります。

いずれにせよ、「義満が作った北山殿は今以上に壮麗だった」と考えたほうがいいかもしれません。

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