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どうなる首里城再建 技術は失われ、資材も調達困難(上)

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2019(令和元)年11月31日、首里城は約11時間にわたって燃え続け、正殿、北殿、南殿・番所、書院などの6棟、4,200平方メートルが全焼しました。主要部分をほぼ失ったことになります。再建を望む声は多いものの、ハードルはいくつもあります。中でも大きいのは、「すでに失われた技術も多い。残っている技術もそれがこなせる職人が足りない」です。

首里城とは

首里城の独自の姿を考えるには、琉球王国の成り立ちから知っておいたほうがいいでしょう。

琉球王国の歴史

琉球(沖縄)が国として統一され琉球王国が成立したのは、1429年でした。ただし、琉球王国の王は即位するにも中国からの承認が必要で、朝貢もする必要がありました。これを「冊封(さくほう)」といい、完全な独立国ではありません。また、1609年には薩摩藩が琉球に兵を送り、支配下に置きました。中国との冊封も続いていたので、二重に支配を受ける形です。

1872(明治5)年、琉球王国は明治政府により廃止され、琉球藩となりました。同時に中国からの冊封も終了することになります。7年後、廃藩置県が実施され沖縄県となりました。元の琉球王国は、明治政府によって強制的に支配下におかれたため、これら一巡の動きは「琉球処分」と呼ばれます。

首里城の歴史

琉球王国450年の歴史で、一貫してその王宮だったのが首里城です。建物は火災に遭って何度も失われたものの、そのたびに再建されてきました。中心正殿(せいでん)で、そのほかの主要な建物も含めて1710年代のものが近代に入ってもそのまま残っていました。建築様式としては、中国と日本の両方が融合した独自のものです。

ところが、第二次大戦末期の沖縄戦で建物は壊滅し、石垣も崩れ落ちました。陸軍が首里城の地下に壕(ごう)を作り、そこに第32軍総司令部を置いたために、ことさらに米軍の艦砲射撃の標的になったのです。

平成の復元工事

本格的な復元工事が始まったのは、1989(平成元)年でした。その3年後には正殿が完成して公開され、ほかの建物の復元工事も進みました。

2000年には「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」が世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録されました。園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)・玉陵(たまうどぅん)・今帰仁城(なきじんじょう)跡などほかの8カ所も含めての登録です。しかし、やはり中心となっているのは、かつての威容を取り戻していた「首里城址」です。

今回の火災で、「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」はその核の部分を失ったことになります。

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